12 Mar 2011

2011.3.11

3/11の地震の時、私は丁度会社に戻ってきたところで、1Fでエレベーターに乗ろうとしたら停まっていたので「点検?」と思って階段で5Fまで戻ろうとした。その時点では地震に気づかず。
3Fまできた時、雑誌部の女性に「地震だからはやく外に!」と言われて来た階段を走って引き返した。その時すでにかなり揺れだしていて階段をかけおりながら転んだ。
外にでると新橋、銀座中の人が外にでていて揺れが収まるのをまっていた。一緒に逃げた先輩の携帯から、仙台での震度7と知る。仙台出身の方がいてパニックに。今週はじめにも仙台北部で地震があった。いつもとは様子が違う。
揺れがおさまって、情報をとるために5Fに戻る。
私の机は本が崩れていたが会社に大きな被害はない。
外出している先輩に連絡をしたりしているうちに、今日は電車の目処がたたないから、帰れる人は早めに帰るように、帰れない人は動かずに会社に停まるようにと言われる。
その時点で下のコンビニに買い出しにでて、すぐに店内のものは売りつくされた。この時点で17時くらい。余震がまだ続く。みんなずっとテレビを見ている。津波にのみこまれる街。津波から逃げるように走って行く車、走って走って逃げようとするが飲み込まれた。
ヘリからの報道で、津波の進む様子を誰もが黙って見ていた。
私の部には仙台出身と水戸出身の先輩がいるが、二人とも外出していたので連絡もつかず、とにかく待つしかなかった。
携帯はもちろん、固定電話からも連絡がつかない。メールもなかなか送れない。
出張で仙台にいっている人たちにも連絡がつかず、社内は慌ただしくなっていく。
母の仕事場に電話が通じて無事を確認。青山も大パニックだったようだ。
結局、道は大渋滞で電車の目処もつかない状況なので私は歩いて帰る事にした。電車が開通しても優先される人がいるのだし歩ける人は歩いて帰った方がいいと思ったし、家の猫も心配だったし、うちのマンションには一人暮らしで仲良くしてくれているお年寄りがいるのも心配だった。東京に全てをもっている私でも、何もかも心配だった。

新橋から渋谷まで、1時間半かけて歩く。同じ事を考える人でとにかくこんでいる。
バスを待つ人も大勢いるけど全く車は進まない。携帯が通じないので公衆電話もすごい行列になっている。
携帯も通じないし、私はなんとか家族の無事が確認できたのでこれ以上は連絡をとらない事にしてとにかくひたすら早足で歩いた。歩きながらも余震があって信号機が揺れているのを目にする。とにかく早く家に帰りたくてひたすら歩く。
途中おばあさんに携帯を貸してくれと頼まれ、私のは通じないから、と麻布警察まで案内する。
こういう時の警察の対応は素晴らしかった。おばあさんは多分麻布警察に泊まる事になったんじゃないかと思う。私の会社でもほとんどの人が会社に泊まった。タクシーも銀座はとてもつかまらなかったし帰る術がない。会社で毛布とか水も配られたようだし、この寒い中外にでるよりが安全。
溜池まで歩いたところで、仙台出身の先輩からメールが入る。会社に戻れたようだが、実家とはまだ連絡がつかないらしい。
全てが見た事ない光景。私の周りで歩いている人はほとんどヘルメットをしている。会社から配られたのだろう。少し不安になる。
私はニュースを見ながら歩いていたが、仙台、岩手、福島は津波の被害で逃げれる人は避難所へ、孤立した人たちにはヘリがまわっているけど薄暗くなり始めたのでとにかく室内へ枝野さんが言っている。気仙沼では雪が降っていた。
気仙沼出身の古い知り合いを思い出す。福島出身の友達も、宮城に親戚のいる人もいる。
そして今は何よりも、毎日隣に座って話をしている先輩の実家の事が不安。

246はとにかく込んでいたし、渋谷駅も大変な事になっていたけど、誰もが冷静でしっかりしていた。老人も子供も優先されていて安心した。でも本当に、自然とそうなる様な、そんな状況だった。私は階段で転んだ時に怪我したらしく、黒いタイツをはいた両足からもわかるくらい血を流していたようで、六本木で信号待ちをしている時に心配してくれたサラリーマンが声をかけてタオルをくれた。
それまで自分が怪我してる事にもきづかなかった。
寒いし、とにかく混んでいて歩きづらい。寒い。血が流れているからか傷口がすごい寒い。
なんとか家についたのが19時45分。
家は思ったより被害がなかった。猫は震えきっていて手に負えない様子だった。
割れたガラスや散らばったものを片付けて20時半ころ母が帰る。
青山から車で2時間以上かかったとの事。

ずっとテレビを見る。その間も何度も余震。
仙台、名取市の様子が流れるたびに手をにぎってしまう。
CMもなく、とにかくずっと報道される東日本の壊滅的な状況。
私の母の実家は千葉県銚子のあたりで、母の叔母の家は津波で浸水し、小学校に避難しているとのこと。親戚の安否が確認できたところで22時近く。
恋人も心配して電話をくれる。そのお母様からもメールを頂く。嬉しかった。
ただ、緊張しながら歩いて帰って来たからか、疲れと足の痛みで眠くなってきたので早めに横になる。正直、この状況をずっとテレビで見ていられる様な状態ではない。私の社内はなんとか無事だったけど、歩いて帰る途中の崩れた壁とか、散乱したコンビニを思い出す。
明け方も余震で何度も目が覚める。
携帯にもパソコンにも心配してくれる人からメールが入っている。
私からもメールをする。引き続き足は痛い。

明け方に都内の電車はほとんど開通したらしい。日本の電鉄マンの「国民の安全な移動と物資の輸送のために最善をつくす」という理念は本当にこういう時最大限にいかされていて感動する。
寝ずの作業で線路を歩いて点検しつづけ、あれだけの揺れからたった半日で電車を開通させてくれる日本の鉄道マンに私は改めて感謝しています。本当にありがとう。
私の大事な人たちは、みなさんの努力と日々の安全対策のおかげで無事に家に帰れました。
あなた方の職業精神は間違いなく、日本が世界に誇れる財産だと思います。
岩手県、宮城県での地震直後から津波までの数分間に乗客を無事に避難させられた鉄道マンも本当に素晴らしい。
そして交通が麻痺しても、誰一人パニックになる事もなく、それによる二次的事故もなく、国民が安全を確保できる場所を素早く供給できる東京の施設にも感心しました。
私の友達も公共施設で夜を明かしたそうです。

今回の、自分の全ての大事なものに不安をもった時間と、無事をしって安心した気持ちと、それを失ってしまった人達がいる事。

私は都民で、生活の、大事なもののほとんどがここにあるからまず周りの事が心配です。
そして、仙台、岩手、福島、各都市で被害にあわれている方とそのご家族に一日もはやい安全な暮らしを願っています。
月曜日、会社がはじまったら会社から何かボランティアをはじめる事になると思います。
この土日は余震対策も含め、安全に過ごしたいと思います。