9 Oct 2011

ありがとうございました。

前回Steve Jobsの事を書いたけど、また。

未来を点で結ぶことはできないから、今前にあって心に思うことをとにかく大事にして、それがいつか自分の道の上でつながるコトを信じなければいけない

でもそんな風に信じるのがすごく難しくて自信なくなったり、それを励ましたりだけど、

でもやっと最近思うのは、形にならなかった点はいっぱいあるけど、つけなくて良かった点はひとつもないな、と。
やらなくて良かった事なんてひとつもないんだな、と思います。

人生一度きりだからって言われても、だからどうしたらそれが充実するのかなんてもう選択肢が多すぎて一度の人生じゃ味わいきれないじゃん、と思ってたけど、
やらなくていい事なんて何もないっていう、そういう事なんだなと今は思う。

いろんなモノを失いながら拾ってく作業が成長なら、何も気にしないで何か大きなものに包まれてる気持ちで精一杯いればいいんではないかと。思いました。

Macを作ってくれてありがとう。なんか今久しぶりにMacを触りだして、私はこのコンピューターがくれた大きな夢みたいのをなんか、懐かしく思いだしました。

どうもありがとうございました。

7 Oct 2011

Steve Jobs

なんだか思うことあった時にだけブログ書いてただの備忘録なんですが、このブログ。

スティーブジョブスのあの演説に世界中の若者が勇気をもらって、勿論私もその一人です。

Stay hungry, Stay foolish.

そんな風に生きるのって難しいんですけど、と思いながらもすっごいハングリーに高嶺の花に垂直跳びで挑んでいた時の自分を思い出した。
当時はちょっと時代違うけど、気持ちの上ではViva la revolutionな気持ちだったな、と。
そして今も、
私毎日へこみながらも結構その気持ちもってるなー、と。
世界中の若者に夢と希望を与えてくれてMacを作ってくれてありがとうございました。

本当に、この前のブログも同じ様な気持ちだったけど、流れていく時代を感じるけど、私には来るべき時代がどんなのかがまだ全然わかりません。

今Macでこれを打ちながら、私のパソコン人生も大学生活も、私がグラフィックデザイナーって肩書きを持って仕事できてた時も全部このこにお世話になってたなーと改めてきづいた。

素晴らしい時代をありがとうございました。

http://www.apple.com/pr/library/2011/10/05Apple-Media-Advisory.html

26 Sept 2011

Basically, she is the most influential artist in my life

Sylvie Guillemを見に行った。

私が5歳か6歳の時に初めて見て以来ずっと追いかけて来て、初めてあんなに近くの席で見た。最前列。

人体模型の様にとぎすまされて無駄がなくなっている脚と、痩せてもう頬と首の筋が目立ってしまう顔立ちと、足に巻かれたテーピングが、もう20年以上こうして踊り続けてきている彼女の今を私に見せつけてくる様で、なんていうか、もう「ああ、もういつかやっぱりこの人は舞台からいなくなって、この瞬間がもう本当にこの瞬間でしかなくなっちゃうんだな」と初めて突きつけられたので、私はもうなんだかあの人がずっとずっと踊り続けて、文化会館で初めて全身震えながら踊っているボレロを見たあの日みたいな気持ちをこれからの私の人生で何度かも味わえるだろうっていう様な気分だったのをぐしゃっとされて、あまりのはちきれる感じにもう涙がでてしまった。

私がまだ毎回バレエの送り迎えを母にしてもらってる頃に、NBAのバレエフェスティバルのパンフを母が買って車においてあって、毎回毎回それを音読しながら八雲まで通っていて、車中でママに読みきかせる文章のタイトルには「時代はつに、奇跡のスーパースターをうんだ」とあって、黒いキャスケットをかぶって顔をかしげたギエムの写真のページだけを何百回ってくらい音読した。ボレロを見て、でも白鳥も見て、あの人があの体で愛らしいおデットだったり怖いくらいの黒鳥を踊るのを私は文化会館で何度も見れて、きっと私は最高にラッキーだ。あの人の全盛期を、クラシックバレリーナが花開いてどんどん花粉をまきちらしてる時代を目の当たりにできて、きっとあれが私の最高のラッキーだった。
でも、私はまだ子供で、わくわくする事しかできなかったし、感動をうけとめてもそれが何なのかなんて全然1ミリもわからなかった。そして今、もう彼女は果てしなかった激動ダンス人生の終わりにさしかかってきてて、きっともうあの人の震える白鳥は見れなくくて、今あの人の体からわきあがってくる踊りを踊る時代に突入して、もう昔には全く戻るコトができない。だから私は最高に悲しいんだけど、なんかもうきっとあの人からほとばしってる才能とか感情を浴びて感無量で、あの人の前では私は何よりももう「ただのなお」な感じがする。

ママが教えてくれて一緒に見て心が震える思いをしたあの人が、もうきっと最後の道を歩き始めてて、そこには20年近い時間があって、振り返って、あの人が私に与えたものとか、あの人が世界に与えた衝撃をすいとってまた育っていった水香さんとかいろんな人たちがまた私を押し進めてくれて、私自身がなんでもなくてもあの人から私はもう人生の贅沢を抱えきれないだけもらった。

正直にいって今の私はあの人の今日の舞台を受け止められるだけの人間じゃなかった。でも、あの人のなんか最後のカーテンコールの笑顔とか、もうたまらなくて、背中を押してくれるっていうか、私はなんか、いつかこういう笑顔ができる人になりたいなあと思った。


まとまりのない支離滅裂の備忘録ですが読んで頂いた方ありがとうございます。
最近はテストが終わったり日本から友人が遊びに来てくれたり、色々充実して心に余裕のある日々なのですが、それでも、今日は今の私には大きすぎる舞台でした。
私は元気です。


日本人のkenta kojiri さんが出演されていて、素晴らしかった。私がモンテカルロ贔屓というのを差し引いて、素晴らしいダンサーです。興味のある方HPご覧下さい。
http://www.kojiri.jp/index.php




10 Jul 2011

今週はすべてに感化されやすいみたいで。

絵がうまいっていうのは本当に財産だな、と思った一日。

本当に、絵を描けるってことはすごいコトなんだなーと思います。

私ももちろん、本当に絵がうまくなりたくて、描けるようになりたくてしょうがない時があったんですが、私なんかではお話にならない世界というのがあって、
そういう世界を見てるだけでも今十分幸せを感じる。

絵がうまいっていうのは、本当にすごいな。

なんか絵をうまくなりたくてがむしゃらにやってた時期があって良かったなーーーーーーー
と思った一日でした。
そして日本人でよかったです。

なんかもう、作る幸せと、知る幸せと、想像する幸せと、そういうの私にとっては全部一緒でいいな、と思った。

6 Jul 2011

いい天気です。

Twonbly が亡くなった事をさっき知りました。


私が大好きだった素敵な方の大好きだった作家で、ふとその頃を思い出した。

あの頃は、例えば、こうしている今を全然想像できなくて小さな小さな10代の世界の中にいたけど、

その小さな世界の中で大きな部分を占めていたモノとかヒトとかコトの事を思い出すと心臓がつぶれそうな気持ちになります。
単純なコトが何より大事なんだけど毎日を丁寧に生きることの難しさで手一杯で、振り返るだけでビリっとくる。

大きな世界を見ながら、小さなコトに集中する事のすさまじさを感じた時のことを思い出した。

R.I.P






5 Jun 2011







ご無沙汰してます。
元気です。

夏がきてますね。みなさんお元気で!

16 May 2011

お久しぶりです。

前回ここに書いてからすごい時間があいたのだが、
ロンドンで暮らしだして明日で1ヶ月になる。

といっても半月は旅行に行っていて留守にしていたのでまだ正味2週間。

私の人生が世界のどのくらいの場所にあるのかこれほど実感がわかないのは初めてで、こういう時間を持っていることを十分に理解しきれていないんだけど、時間だけは十分に充実させている。
旅行でもなんでも、いつも外国ならどこでも周囲に恵まれるんだが、今も当たり前の様に周囲が自分にあっているのでここがどこだという意識がまだない。
早くここが世界の全然違う場所で、同じ時間は二度とないという事を肌身に感じたいと思うのだが、まだ当分そんな事を感じる事はないんだと思う。

人生を二回やる事はできないけど、より良い人生にする為の時間なんらいくらでもあるんだと言われて深くうなずいていたけど、むしろより良いものにする為の時間が人生っていうんじゃないかと感じる。
前回の日記の後、色々な衝撃が私の世界をきりとっていって、残された世界を今度は違う場所において生きているので、何にしても前向きで、上向きな姿勢でいるよりほかにない。私は私の人生で選んだ事にはすべて責任をもてるが、選ばなかった事に大しての態度にはとても情けないものがある。
誰もが、うしろめたくない人生が送りたいと思うけれど、そんな潔白な人が本当にいるんだろうかと思う。

そんなわけで、またロンドンから少しづつ何か書いていきますので、よろしく御願い致します!

12 Mar 2011

2011.3.11

3/11の地震の時、私は丁度会社に戻ってきたところで、1Fでエレベーターに乗ろうとしたら停まっていたので「点検?」と思って階段で5Fまで戻ろうとした。その時点では地震に気づかず。
3Fまできた時、雑誌部の女性に「地震だからはやく外に!」と言われて来た階段を走って引き返した。その時すでにかなり揺れだしていて階段をかけおりながら転んだ。
外にでると新橋、銀座中の人が外にでていて揺れが収まるのをまっていた。一緒に逃げた先輩の携帯から、仙台での震度7と知る。仙台出身の方がいてパニックに。今週はじめにも仙台北部で地震があった。いつもとは様子が違う。
揺れがおさまって、情報をとるために5Fに戻る。
私の机は本が崩れていたが会社に大きな被害はない。
外出している先輩に連絡をしたりしているうちに、今日は電車の目処がたたないから、帰れる人は早めに帰るように、帰れない人は動かずに会社に停まるようにと言われる。
その時点で下のコンビニに買い出しにでて、すぐに店内のものは売りつくされた。この時点で17時くらい。余震がまだ続く。みんなずっとテレビを見ている。津波にのみこまれる街。津波から逃げるように走って行く車、走って走って逃げようとするが飲み込まれた。
ヘリからの報道で、津波の進む様子を誰もが黙って見ていた。
私の部には仙台出身と水戸出身の先輩がいるが、二人とも外出していたので連絡もつかず、とにかく待つしかなかった。
携帯はもちろん、固定電話からも連絡がつかない。メールもなかなか送れない。
出張で仙台にいっている人たちにも連絡がつかず、社内は慌ただしくなっていく。
母の仕事場に電話が通じて無事を確認。青山も大パニックだったようだ。
結局、道は大渋滞で電車の目処もつかない状況なので私は歩いて帰る事にした。電車が開通しても優先される人がいるのだし歩ける人は歩いて帰った方がいいと思ったし、家の猫も心配だったし、うちのマンションには一人暮らしで仲良くしてくれているお年寄りがいるのも心配だった。東京に全てをもっている私でも、何もかも心配だった。

新橋から渋谷まで、1時間半かけて歩く。同じ事を考える人でとにかくこんでいる。
バスを待つ人も大勢いるけど全く車は進まない。携帯が通じないので公衆電話もすごい行列になっている。
携帯も通じないし、私はなんとか家族の無事が確認できたのでこれ以上は連絡をとらない事にしてとにかくひたすら早足で歩いた。歩きながらも余震があって信号機が揺れているのを目にする。とにかく早く家に帰りたくてひたすら歩く。
途中おばあさんに携帯を貸してくれと頼まれ、私のは通じないから、と麻布警察まで案内する。
こういう時の警察の対応は素晴らしかった。おばあさんは多分麻布警察に泊まる事になったんじゃないかと思う。私の会社でもほとんどの人が会社に泊まった。タクシーも銀座はとてもつかまらなかったし帰る術がない。会社で毛布とか水も配られたようだし、この寒い中外にでるよりが安全。
溜池まで歩いたところで、仙台出身の先輩からメールが入る。会社に戻れたようだが、実家とはまだ連絡がつかないらしい。
全てが見た事ない光景。私の周りで歩いている人はほとんどヘルメットをしている。会社から配られたのだろう。少し不安になる。
私はニュースを見ながら歩いていたが、仙台、岩手、福島は津波の被害で逃げれる人は避難所へ、孤立した人たちにはヘリがまわっているけど薄暗くなり始めたのでとにかく室内へ枝野さんが言っている。気仙沼では雪が降っていた。
気仙沼出身の古い知り合いを思い出す。福島出身の友達も、宮城に親戚のいる人もいる。
そして今は何よりも、毎日隣に座って話をしている先輩の実家の事が不安。

246はとにかく込んでいたし、渋谷駅も大変な事になっていたけど、誰もが冷静でしっかりしていた。老人も子供も優先されていて安心した。でも本当に、自然とそうなる様な、そんな状況だった。私は階段で転んだ時に怪我したらしく、黒いタイツをはいた両足からもわかるくらい血を流していたようで、六本木で信号待ちをしている時に心配してくれたサラリーマンが声をかけてタオルをくれた。
それまで自分が怪我してる事にもきづかなかった。
寒いし、とにかく混んでいて歩きづらい。寒い。血が流れているからか傷口がすごい寒い。
なんとか家についたのが19時45分。
家は思ったより被害がなかった。猫は震えきっていて手に負えない様子だった。
割れたガラスや散らばったものを片付けて20時半ころ母が帰る。
青山から車で2時間以上かかったとの事。

ずっとテレビを見る。その間も何度も余震。
仙台、名取市の様子が流れるたびに手をにぎってしまう。
CMもなく、とにかくずっと報道される東日本の壊滅的な状況。
私の母の実家は千葉県銚子のあたりで、母の叔母の家は津波で浸水し、小学校に避難しているとのこと。親戚の安否が確認できたところで22時近く。
恋人も心配して電話をくれる。そのお母様からもメールを頂く。嬉しかった。
ただ、緊張しながら歩いて帰って来たからか、疲れと足の痛みで眠くなってきたので早めに横になる。正直、この状況をずっとテレビで見ていられる様な状態ではない。私の社内はなんとか無事だったけど、歩いて帰る途中の崩れた壁とか、散乱したコンビニを思い出す。
明け方も余震で何度も目が覚める。
携帯にもパソコンにも心配してくれる人からメールが入っている。
私からもメールをする。引き続き足は痛い。

明け方に都内の電車はほとんど開通したらしい。日本の電鉄マンの「国民の安全な移動と物資の輸送のために最善をつくす」という理念は本当にこういう時最大限にいかされていて感動する。
寝ずの作業で線路を歩いて点検しつづけ、あれだけの揺れからたった半日で電車を開通させてくれる日本の鉄道マンに私は改めて感謝しています。本当にありがとう。
私の大事な人たちは、みなさんの努力と日々の安全対策のおかげで無事に家に帰れました。
あなた方の職業精神は間違いなく、日本が世界に誇れる財産だと思います。
岩手県、宮城県での地震直後から津波までの数分間に乗客を無事に避難させられた鉄道マンも本当に素晴らしい。
そして交通が麻痺しても、誰一人パニックになる事もなく、それによる二次的事故もなく、国民が安全を確保できる場所を素早く供給できる東京の施設にも感心しました。
私の友達も公共施設で夜を明かしたそうです。

今回の、自分の全ての大事なものに不安をもった時間と、無事をしって安心した気持ちと、それを失ってしまった人達がいる事。

私は都民で、生活の、大事なもののほとんどがここにあるからまず周りの事が心配です。
そして、仙台、岩手、福島、各都市で被害にあわれている方とそのご家族に一日もはやい安全な暮らしを願っています。
月曜日、会社がはじまったら会社から何かボランティアをはじめる事になると思います。
この土日は余震対策も含め、安全に過ごしたいと思います。

14 Feb 2011

Thank you 25, Hello 26!!

今日はバレンタインデーで、私の誕生日。
今夜東京は雪が降ってます。

雪が降る東京の夜は、静かで、いつもの音が全部雪に吸い込まれて何も聴こえなくなって、
これが私が一番好きな東京。
渋谷からの帰り道に誰もいなくて、雪を踏む音だけして、最高だった。


最高の誕生日プレゼントです。


 こういう、言葉にならない素敵な事が、これからも待っていてくれますように


ありがとう!



8 Feb 2011

Korea

韓国へ行ってきた。


今回はマイルの有効活用目的の旅行でしたが、私のお目当ては「宿」。

楽古斎に宿泊しました。

ここは、キムギドク監督の「悲夢」の撮影に使われた、韓国の伝統的家屋「韓屋」を旅館にした所。
私は韓国行きが決定した8月に即、宿に予約をいれる気合いのいれよう。
ここは建物は壁も窓も簡素な作りだけれど、床にオンドルが入っているため非常に暖かい。
初韓国、初オンドルに末端冷え性の私、感動。

そして、特筆すべきはここのサウナ。
各部屋にお風呂がついていますが(ドライヤーもあった)この宿にはサウナが一室ある。
ここが素晴らしい!!
この漆喰を塗った職人さん、ぜひ日本に引き抜きたい!と、
全くそんな職種ではない私が大興奮の、素晴らしい壁です。
ここで、藁のゴザの上に寝転んでじっくりヨモギに蒸されていくという仕組み。
日本や、トルコやインドで味わうサウナとは全く違う心地よさ。
ここを訪れる方には是非一度ご体験頂きたい。

進んで進んで、爆進し続けるソウルの中で、私が見たかった、静かで優雅な韓国が味わえた。







5 Feb 2011

ALL ABOUT MY MOTHER

エジプト騒乱。

「政権を倒す」文字で見ると本当に恐ろしく大きい出来事に感じるのに、

実際は国民性虚弱体質で軟弱にいきてる私にはこの年になっても本の中の出来事のような話に感じる。

そんな情けない話だけど、日本よりもずっと国土も人口も少ない国でおこっている事実だし、

私は報道とか現地にいるとかそういう事では全然リアルではない、そんな現実。

けれど、その中でこの混乱の中で息子を亡くした母親の記事をよんで、それがたまらなかった。

街の土産物店をきりもりしながら一人で息子たちを育ててきた母親。

「働く母親」それがのすごく響いてしまってどうしようもなかった。たまらなくリアルだった。


そこから飛んで、自分の話。


私は先週、会社を辞める意向を上司に話した。

その時の事は、なんだか人生でまたとないであろう幸せな言葉とか、有難い思いがあったけど、

それよりも、忘れちゃいけないものについて。


私はフェミニストでもなんでもないけど、社会で働く上で男女に差を感じない。

女性は困難を受け入れるだけの度量がもともと男性よりもきっと広いのだと思うけど、

最近は男性もそれによって女性がどれだけの我慢をしてるかを受け入れるだけの許容量をもっているように思う。

別にフェミニストじゃないんだけど。(2回言う)

だから働く女性はもう決して社会的に辛い立場ではないと思っている。(でも自分が恵まれてたのもわかってます)


ただ、働く「母親」が辛いのだ。


どんなに完璧に背筋を伸ばして社会に貢献しても、どんなに立派で芯の美しい潔白な女性であっても、

どんなに愛情をもって子供を育て旦那の世話を焼き家事をしても、

「専業主婦」という名前がある限り、「外にでて働く母親」は心の奥で後ろめたさをもつ様に感じる。

私は働く母親をもって、その背中をみて育って、今、自分は一度仕事を辞める事にして、

言葉にならない気持ちでいっぱいです。


母は社会の中で働くというより、自分の能力で直接人に貢献する事を仕事にしてきた人で、

その楽しさと厳しさが私も働きだしてもう色々わかってきた今やっと、わかるのだ。

あんな事は到底私にはできない。

若くに世界を経験して帰って来てその礎から自分の居場所を作り上げて人に貢献して人を育てて今もそこにいる。

そこに先立つものもなかったのに。

ひとつの事を突き詰めていきていったらそうであっただけで、

成功とも成就ともつかない週5日のフルタイム以上の自分の選んだ道をずっと、今も。

成功を目指して生きる人にはできない事なのだ。

練習して練習して練習して、その先に「ああ、自分はこう生きよう」という意志があって、

結婚して私が産まれて事情も決意も変われど、信念だけは変わらずにいたから、そういう人は続いていくのだ。

芸術に没頭してそれを仕事にしてしまったからにはもう仕方ないのだけど、それでも、とてつもない事だ。

なのに、甘ったれの小さい娘が泣くと、そういう事のひとつひとつが母親には後ろめたさになっていく。

これが父親だとそうはならない。(父にはまた別の尊敬の気持ちがある)

母から、デザインはやっぱり芸術の手前で一歩踏みとどまるのだな、自分はそっちではないんだな、と感じた。

表面ではわからない事を背中で教えてくれていた。

そういう事全てをわかっていながら、それでも、今、私は仕事をやめてみようと思った。

若い時にしか言えない事があり、無知な時にしか気づけないものがあって、

自分がどれだけのものを与えたり奪ったりしているのかわからない。

ひつとの事が呼ぶ連鎖でどれだけの余波にであうのかわからない。

先の事はわからないから、こうして色々感じる。


勿論、働いている母親だけが大変なわけでも、働かない母親が自由なわけでもない。そんな安易な事ではない。

ただ私が今思っているのは、


やらなきゃいけない事とやりたい事


社会と自分と家庭と愛情


必要と不必要と不可欠と充実


そういう事を背負って、それでも働いて家に子供がいる、

そういう状況を選んだ、選ばざるをえなかった女性への尊敬、それだけです。


子供は小さくてもわかっている、自分が天秤の上にいるわけじゃない事はわかってる。

わかっているけど、それをまだ愛情を通して表現できないし、

子供は大人以上に大人で、大人は子供以上に子供だからジレンマがおきてしまう。

でも母親はその存在だけで、子供に許されて愛されているんだからそこで戸惑う事はない。

母親はいつも子供を許してくれるけど、子供だって母親を許している。

でもあまりにも自制心もないし、無邪気すぎるだけなんだ。そこには伝えなくても伝わるものはある。


私はそれに気づいたのが12、3くらいだったので、すごく遅かったと思う。

どれだけ無力で無知だったのかを思うと情けないと同時に、思春期までにきづけた事が自分を決定づけた気がしている。

母だけでなく、父にも、叔母にも、本にも、教師にも、まわりの全ての人によって気づかされた。

やはり子供は皆、大人の背中を見て育つのだ。それがどう作用するかが人それぞれなだけで、そこはもう親の責任ではない。


有島武郎は親の気持ちを全部はきだして文章にしてくれたし、

ペドロ・アルモドバルが世界中の母親を励ましてくれたけど、

私の職場に働く母親はいない。

女性はいても、母親はいなかった。

たしかにこの仕事を母親でと考えたら今いたたまれない気持ちになった。


私は14の時に自分は働く人になろうと決めてそういう道に爆進しようとした。それは今でも変わらない。

でも、こうして母親でもなく、働きもしない時間をつくる事にして、

贅沢な時代に傲慢になってしまいがちな怠惰な自分をすごく感じる。

自分を納得させるのにはずば抜けて長けた世代だ。

楽しさと、噛み締める幸せはまた違う事。  だから、これからの間に忘れてしまう事がないように書いてみた。


そして、私の心の励みになっている、あの世界中の「働く母親」たちに、

もっともっともっとありったけの幸せをかみしめてもらいたい。


世界中のどんな状況下でも、「働く母親」が涙を流しているのは私には何よりも悲しい光景だ。

働く理由はそれぞれで、人の事は羨ましく思えても当然だけど、背負うものはきっと同じだと思う。

私は親戚のおばあさんの人生を思うと、

どうかこれからは、働く女性が子供だけでなく家庭からも社会からも報われる世界に、とこみ上げる。

まずその一つとして自分がそうありたいと思う。

そういう意識が、国民の意識レベルにおいつかない政治よりも、ずっと近くで人に作用すると思っている。

愛情に勝るものなんて誰にも見つけられない事を感じる。



   そんな長い話。  20年後にどう思っているんでしょうか。



世界中の働く母親と、働く母親だった全ての女性に、心からの尊敬と感謝をこめて。




23 Jan 2011

2011

冬の東京は今年も綺麗な夕焼けです。

次の冬はまた違う夕焼けを見る事になりました。
世界中にいる友達みんなにとって、元気で幸せな年になりますように!